① 日時 2020年8月5日
② 場所 JR高尾駅よりバス。西東京バス「高尾の森わくわくビレッジ」「宝生寺団地」「恩方ターミナル」「大久保」「陣馬高原下」「グリーンタウン高尾」「美山町」行きで、バス停「霊園前・八王子城跡入口」下車、徒歩約15分。
*土・日・祝日のみ、JR高尾駅より、「八王子城跡」行が運行
〒193-0826 東京都八王子市元八王子町・下恩方町・西寺方町
③ コメント
日本100名城の22番です。
滝山城を後にし、北条氏照が滝山城から移った八王子城に向かいました。大通りを案内看板に従い、左に曲がり、霊園を過ぎさらに進むと見えてきました。駐車場に車を止め、ガイダンス施設へ向かいました。こちらで日本100名城のスタンプを押して、八王子城の展示物を見ました。こちらの当主氏康の三男氏照が外交がうまくとても有能な武将であったことがわかりました。
この後、八王子城跡に向かいました。防衛を強化するため滝山城から移った日本有数の山城で山頂へは、40分かかるとのことととても暑い日でしたので登ることは止め、15分で行ける主殿に行くことにしました。
主殿に行く前に広場に八王子城のジオラマ、説明の掲示がありました。
大手門跡、橋を渡り、入口に石垣がありました。
石段を上り櫓門跡を通り、御主殿へ向かいました。
御主殿跡は、城主北条氏照の居館があった場所で広く更地に現在なってました。
北条氏康の三男・氏照が1571年(元亀2年)頃、武田信玄軍に攻められた際に滝山城の防衛の限界を感じて本拠を八王子城に移しました。
八王子城は上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められました。当時、城主の氏照以下家臣は小田原本城に駆けつけており、八王子城内には城代の横地監物吉信、家臣の狩野主善一庵、中山勘解由家範、近藤出羽守綱秀らわずかの将兵の他、領内から動員した農民と婦女子を主とする領民を加えた約3000人が立て籠ってました。
豊臣側は前夜のうち霧をぬって主力が東正面の大手口(元八王子町)と北側の絡め手(下恩方町)の2方向より侵攻し、力攻めにより早朝には要害地区まで守備隊を追いやった。その後は激戦となり1000人以上の死傷者を出し、一時は攻撃の足が止まったが、絡め手側別働隊の奇襲が成功して、その日のうちに城は陥落した。氏照正室、比佐を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられています。
この八王子城攻防戦を含む小田原征伐において北条氏は敗北し、城主の北条氏照は兄、氏政とともに切腹した。のちに新領主となった徳川家康によって八王子城は廃城となりました。
④ スタンプの場所
八王子城跡ガイダンス施設
⑤ その他
駐車場も17時過ぎると閉めるようなので注意必要です。