今回は、前回終了した神保原駅からの出発です。全開と同じ時刻の電車で、神保原駅には、9時過ぎに到着しました。前回スタートの熊谷駅には、8時30分に着きましたので、電車の30分の距離を歩いた感じでしょうか。神保原駅の周りにはコンビニやコーヒーショップ等朝ご飯食べれるところがないと前回終了時に見てましたので、持参して駅のホームのベンチで食べました。駅の構内には、七福神の像がありました。
神保原駅の前で簡単に準備運動し、出発です。
中山道までは、駅の前7.8分歩き、左に曲がり合流です。
こちらのサイトを見ながら歩きます。
また、こちらの本も見ながら中山道ウォーク開始しました。
まず、最初のポイントの武田信玄の正室にゆかりの陽雲寺に立ち寄りました。立派な鐘もありました。
その後、勝場の23里目の一里塚が17号合流前にありました。一旦、見過ごしてしまい、勝場のバス停の前にありました。
神流川を渡る前に戦国時代に激戦のあった神流川古戦場跡の碑がありました。
橋を渡ると群馬武蔵国から上野国へと入ります。(現在は埼玉県と群馬県の県境)橋の途中に常夜燈がありました。
神流川を渡ると間もなく、復元された見通灯篭の前を通ると、新町宿に入ります。
その後、八坂神社、芭蕉句碑、諏訪神社、高札場、天皇が休憩した行在所公園、小林一茶が宿泊した高瀬屋跡、小林本陣跡がありました。
人力のサイトによると新町宿は、
上野国に入って最初の宿場。当初は宿場として存在していなかったが、先の川渡りを控えて、宿場が無いと不便であるということから、中山道の制定から実に50年遅れで新設された宿場でした。
新町宿の出口に弁財天がありました。
関越自動車道の下をくぐり、お伊勢の森を見ながら、高崎伊勢サイクリングロードを沿って中山道を進みました。
烏川を柳瀬橋を渡って、北向飼育観音、日光例弊使道追分にたどり着くと、常夜燈もあり倉賀野宿の入り口です。
倉賀野宿に入り、本陣跡がありました。
歩いてるいると人の出入りがあり、看板だけでは何の店かわかりませんでしたが、賑わっているので中に入りちらの店でランチにすることにしました。
お店に入ると蕎麦とソースカツ丼の店のでした。
お店の人に聞くとおすすめは、特製つけ蕎麦かつ丼セットということでこちらにしました。こちらではかつ丼は、ソースカツのようで、ソースを選ぶことができます。私は、特製ソースをまた、蕎麦のつけ汁も鰹と魚貝から選べて鰹を選びました。こちらの地域では、かつ丼は、ソースかつ丼が一般的なのでしょうか。
先に蕎麦が運ばれて来ました。腰のある蕎麦でとても美味しいです。
その後、ソースかつ丼も来ました。ミニサイズですが、三枚かつがのってました。サクサクでソースも程よくとても美味しかったです。
ランチでお腹いっぱいになり再び中山道ウォーク再開です。その後、本陣跡、高札場跡、安楽寺と続きました。
人力のサイトによると
倉賀野宿は江戸時代に入り中山道が整備されると、陸路では例幣使街道との追分の宿場町として、さらには水路では利根川支流・烏川の河岸への物資の集散地としても賑わいをみせました。
倉賀野宿には、烏川を利用した舟運搬の河岸があり、河岸を合わせた宿場であった。さらに日光例幣使街道の分岐点として交通上の重要な地点でもあった。宿は「下町、中町、上町」で成り立っており「中町」が中心でした。
倉賀野宿を出て進むと、ひたすら歩きます。踏切を超え、高崎アリーナを右手に歩き、高崎駅付近にある、宿場案内の木柱を過ぎると、高崎宿に入ります。本町三丁目を左折します。
すぐに、当時を偲ぶ山田家を通り、高崎神社がありました。こちらで御朱印いただきました。
その後、すぐに長松寺、番所跡、現在は図書館として一般に公開されてい山田文庫があり、ここを右折します。
人力乗るサイトによると
高崎宿は、井伊直政が築いた高崎城の城下町として発展し、上州路最大の賑わいを見せる宿場町となった。
しかし、高崎宿には、本陣や脇本陣が置かれていなかった。理由は、諸大名が御城下での宿泊を敬遠したからとのことです。
稲荷大明神を過ぎ、少々わかりにくいですが県道の手前を左に回り込み歩道を歩くと君ヶ代橋です。
烏川を渡り高崎宿を出て、次の板鼻宿に向かいます。橋を渡り地下道をくぐるとすぐに万日堂がありました。その後、源義家ゆかりの若宮八幡宮、上豊岡の茶屋本陣、江戸から28里目の藤塚の一里塚が上野國一社八幡宮の鳥居などを見て進むと、間もなく板鼻宿です。