① 日時 2022年9月2日
② 場所 JR江差線 木古内駅から函館バス松前行きで松城下車、徒歩約10分
〒049-1511 北海道松前郡松前町松城144
③ コメント
日本100名城の3番です。
新幹線で東京駅から木古内駅まで行き、レンタカーを借りて松前城に来ました。
カーナビをセットし、松前城の駐車場に車を停め、城に上っていきました。
すぐに福山城の看板がありました。松前城ではなく福山城と呼ぶのが正式のようです。
坂を上り終えると城が見えてきました。この立派な木は松でしょうか。
門をくぐり、松前城資料館入城券売り場がありました。こちらで360円支払い、その後100名城のスタンプを押しました。
中に入ると松前町の地勢の説明がありました。
最初の蝦夷島主になった蠣崎慶廣(後の松前氏)と松前藩設立の前の松前についての説明がありました。
その後松前藩の設立、お城について、当時の城の図、街並み等展示されてました。
松前城からの街並みが見えました。
津軽海峡が良く見えます。
城を降りて松前城の写真スポットがありました。
本丸御門もありました。
後に支配した武田氏の系図がありました。
隣接している松前神社にもお参りしました。
以下、松前町HPからの引用です。
松前家の前身蠣崎(かきざき)氏は、大館を拠点とし、5世慶廣(よしひろ)のとき、豊臣秀吉、徳川家康によって大名に列せられ、姓を松前と改めた。初代藩主となった慶廣は、慶長5年(1600)大館の南方にある、福山台地に新城(福山館)を築き、6年の歳月を費やし、慶長11年(1606)に完成した。
嘉永2年(1849)、幕府は蝦夷地近海に出没する外国船に脅威を感じ、要害を固めるよう、17世崇廣(たかひろ)に特旨をもって築城を命じた。 崇廣は、翌3年、高崎藩の兵学者市川一学に設計させ、家老松前内蔵廣当(くらまさひろ)を総奉行として(のちに家老下国安芸崇教があたる)工事に着手し、5年の歳月を経て、安政元年(1854)新城が竣工した。
新城の面積は23,578坪(蝦夷実地検考録)。本丸、二ノ丸、三ノ丸、城門16、三重櫓1、二重櫓3、渡櫓門3、多聞櫓2を備え、特に海岸に近い三ノ丸には台場7基を配備した。
竣工とともに、幕府目付堀織部正利熙(ほりおりべのしょうとしひろ)らが新城を検分し、福山城と呼称され、我が国において最北に位置する、最後の日本式城郭となった。
明治元年(1868)10月、幕府脱走軍は、榎本釜次郎武揚(えのもとかまじろうたけあき)を首領として蝦夷地(現森町鷲ノ木)に上陸した。さらに五稜郭を占拠し、その後、かつての新選組副長土方歳三を長とする陸軍隊・額兵隊(がくへいたい)の主力が、福山城へ向けて進撃を開始した。松前藩は死力を尽くして防戦したが、遂に落城し、城内の一部と寺町を焼いて敗走した。 明治2年(1869)4月には、幕府脱走軍の占拠する福山城を官軍が奪回するなど、2年間にわたる戦禍は、城下町の3分の2を焼き、城内にも大きな被害を与えた。
明治5年になって、開拓使の治政下に入り、同6年9月、黒田次官の裁決を仰いで福山城の取り壊しを決定し、同8年までには、三層天守、本丸御門、本丸御殿を残し、他の建物、石垣を取り壊し、濠を埋めて、城郭の形態を失うに至った。
昭和10年6月7日、国指定史跡に指定されたが、昭和24年6月5日、火災により国宝であった三層天守と土塀を焼失した。さらにその後、公有・民有の建物等が増加し、史跡指定地内の荒廃が激しくなったため、昭和51年度より史跡福山城保存管理計画に基づき、保存整備が進められ、現在は平成28年度からの保存活用計画により整備を進めている。
④ スタンプの場所