JR村井駅近くの温浴施設のあるホテルで宿泊し、今日は、JR奈良井駅に戻りました。昨日終了地点の鍵の手の水飲場から開始ですが、その前に奈良井宿の本陣に立ち寄りました。伊勢屋の横にあったのですが、行くのを漏れてしまいました。
その後、鍵の手飲場に行き、こちらからいつものこちらのガイドブック片手に中山道ウォーク開始です。次の薮原宿で終了です。
奈良井宿は、昔の街並みが残ってます。
奈良井宿の出口に高札場跡がありました。
人力のサイトによると奈良井宿は、
古くは東山道、又戦国時代には武田氏が定めた宿駅である。木曽11宿の中でも標高940mと高い位置にあり、曽谷最大難所鳥居峠(標高1197m) を控え、大層賑わい「奈良井千軒」と称されたという。火災は多発しており、寛永8年(1631)から文久2年(1862)まで、記録に表れているだけで21件を数えている。町並みは天保年間の建物が多数残っており、狭い道の両側に長い軒先を突き出した家、二階が一階より1尺5寸(45cm)せり出した出梁造り、一階と二階の境に取り付けらた小さな屋根(鎧庇、猿頭)、くぐり戸、蔀戸、千本格子の町並みが続く。昭和53年、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、地区を上げて町並み保存に尽力している。奈良井宿の看板を見てこれから鳥居峠に入ります。
すぐに鳥居峠越えの看板がありました。
これから鳥居峠まで約2キロです。
すぐに石畳がありました。
その後、本沢自然探勝園(葬沢)がありました。こちらは、木曾義昌が武田勝頼の兵を迎撃し勝利を収めた古戦場の場所でした。
中の茶屋、鳥居峠の一里塚と進んで行きます。
鳥居峠の頂上付近を過ぎ、
子産みの栃(トチ)がありました。
薮原宿へ進み、北から初めて御嶽山を望める場所にある御嶽神社がありました。
その後、芭蕉の句碑、古戦場の碑がありました。
薮原宿が見えてきました。
下りの方が急な感じがし、登って来る人は、外国人の方ばかりです。インバウンドすごいですね。どんどん下っていき、鳥居峠の出口に着きました。
その後さらに石畳を下ります。
薮原宿に入るところに尾張藩鷹匠役所跡がありました。少々高いところにあり見晴らしが良く、ここで鷹の飼育をしていたとのことです。
その後、飛騨街道との分岐の追分がありました。人力のサイトによると中山道の難所の一つ、鳥居峠の麓に位置し、また飛騨街道との分岐があったため、宿泊するものも多かったそうです。
線路沿いを戻り、歩道橋を渡り線路を超えて反対側に行きました。
薮原宿も、隣の奈良井宿同様、宿の風情を残してました。本陣跡、防火高屏跡、高札場跡がありました。
その後、お洒落な駅へ向かう地下道の入り口、そして、SLの横に江戸から六十七里目の薮原の一里塚がありました。
薮原宿を出た後は、次の宿場宮ノ越宿に向かいます。
ここからはガイドブックは次の編になります。
しばらく国道沿いを歩き、巴淵の看板を左に入ります。
宮ノ越宿の看板を過ぎ、景勝の巴淵に着きました。
この巴淵を過ぎると宮ノ越宿に入りました。木曽義仲の町という感じです。
人力のサイトによると宮ノ越宿は、
平安末期の武将木曽義仲ゆかりの場所。宿場関連の史跡よりも、木曽義仲関連の史跡が多い。かつては木曽川の水を使った用水が宿場内を流れていた。
義仲館に立ち寄りましたが閉まっていて写真だけ撮りました。
その後、立派な本陣跡がありました。
宮ノ越宿を出ると、宮ノ越の一里塚があり、原野を通って、江戸と京都の中間点、中山道中間点がありました。やっとここで中間点です。
その先横の細道に行き、私道のような道を進み、さらに小さい橋も渡り、木曽義仲ゆかりの手習天神がありました。
さらに進み、国道建設時にこちらに移設されたようですが出尻の一里塚がありました。
さらに進み、木曽福島に入りました。
木曽大橋を過ぎ、福島関所に立ち寄りました。
福島の関所は、碓氷、箱根、新居とともに天下の四代関所といわれたそうです。
番所跡、築地屏跡、復元図がありました。
福島関所資料館があり、中に入り見学することにしました。コンパクトでしたが、当時の雰囲気を感じることができます。
福島宿に入っていきます。人力のサイトによると以下の記載がありました。
宿の入口には関所を配し、関所の町として栄えた。また、木曽氏の居城上の段城があったことから城下町として発達し、上の段区には町並みが残されている。
関所を見た後、木曽町文化交流センターの前に本陣跡がありました。
代官屋敷もあるようでしたが、少し離れていたのと電車の時間もあり立ち寄らず木曽福島駅に向かいました。
木曽福島からは、名古屋経由の新幹線の方が早いのですが、4000円超の差があり塩尻経由のあずさで帰りました。そろそろ新幹線かなと思い始めてます。